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雑感

半年は長かったのか短かったのか

 ご無沙汰してます! 毎日、寒いですね。自転車で通勤していると、耳と頭と指が痛くなって困ります。全身が冷たい風にさらされて、ずきずきする。走っている間はあまり気にならないのに、会社に着いて暖房の効いたフロアに入ったとたん、思い出したように痛み出す体。あれはなんでなんでしょ。

 さて、近況などをぽつぽつと。


 先日、夫がクリスマスツリーを買ってきた。私の身長の半分ほどの、小さなツリー。家から自転車で15分ほど走った先にあるホームセンターで、ただでさえ安価なのに、さらに割引されて売られていたらしい。まだクリスマスまでは一週間以上あるのに。
 夕食を食べ終えて、ふたりでいそいそと飾り付けをした。サイズが小さいから、作業はほんの数分で終わった。出来上がったツリーを眺めて、夫と顔を見合わせた。付属の装飾品はいかにも安っぽく、てっぺんに星を飾ると、ほんの少しだが右に傾いて見える。
「なんか、しょぼくない?」
「確かに」
「でも、そのしょぼさが、なんか可愛い!」
「確かに!」
 値段相応のしょぼくれたツリーは、それでもリビングの一角をほんのり明るくした。それから毎日、視界に入るたび、夫とふたりで可愛いねと言い合っている。


 数日前、家に友人たちを呼んで、少しはやめのクリスマスパーティーをした。まあ、クリスマスを口実にした、ただ呑んだくれる会である。とはいうものの、件のツリーも客間に移動させ、いつもより手をかけて鶏を煮込んだりして迎えた。
 客人は、以前通っていた小説教室で出会った夫婦共通の友人である。カップル1組と独身男子1人。独身男子はいつも値の張る焼酎を手土産にかついで来てくれる。今回は甕雫。芋の割りにするすると呑みやすい危険なお酒。カップルは、スーパーでサーモンのたたきを仕入れてきてくれた。でかでかと半額シールが貼られているのを見て、思わず頬が緩む。若い彼らはまだ半分大学に足をつっこんでいて、派遣のバイトで食いつないでいるのだ。彼女の方が、「今日はユザワヤで6時間チェーンの長さを計ってきました」と笑う。前呑んだときは、朝から晩まで謎の肉を切る仕事をしたと言っていた。
 彼らと呑むのは、とても楽しい。よく食べるし、よく呑む。ビール6缶、ワイン1本、甕雫があっという間に空になる。酒を傾けながら、とめどなくしゃべって笑い転げる。大部分はどうでもよいこと。ちょこっとだけ小説の話も。
 独身男子が、来年の初夏に本を出版することになったそうだ。かねてから書いていた歴史小説が認められたのだ。初め新人賞に出して落選したのだが、どうしてもあきらめきれず、手直しして著作権エージェントに持込をしたとのこと。いまは編集氏から課された書き直しに四苦八苦しているそう。
 友人が小説家としてデビューするのは素直に嬉しい。彼の情熱と、それを形にするための緻密かつ粘り強い努力には、本当に頭が下がる。
 でも、なんとなく心がもやもやするのも事実。悔しい、とか、羨ましい、だったらまだいいのだ。でも、違う。悔しいとあんまり感じない自分に、なんだかなあと思うわけだ。6月以来、ほとんど小説らしきものを書いていない。書こうと思って、仕事の休み時間などにワードを立ち上げてみたりするけど、1枚分くらい書いては消し、書いては消しを繰り返してぜんぜん進まない。指が重くて、思考がいろんなものに邪魔されて、結局白紙のままワードを閉じる。誰か見えない人が、見えない糸で私の指を引っ張っているのか。耳元でいらぬことを囁いているのか。
 まあ、“見えない誰か”は、怠惰で言い訳がましい自分自身だとはわかっているのだけど。
 とりあえず「こんちくしょう、すぐに追い抜いてやるわ」と思えるまでは、じっとしていよう。その間に、いろいろな出来事を咀嚼して、消化して、蓄えて、心に分厚い膜を作らなくっちゃ。自分の感情に呑まれないように。酔わないように。
 結局、その日はべろべろに酔っ払ったまま、皆でカラオケにいった。夜中の寒い道を酒臭い息を吐きながら帰って、そのまま風呂にも入らず寝た。楽しかった。ちゃんとお腹の底から笑える日が、こうして当たり前にあります。それをまだ、不思議に思ったりもする。


 もうすぐ1年が終わる。1年が終わったからといって、日々は変わらなく続いていくのだけど、「区切る」ことはなかなかよい習慣だと思う。
 持ち続けることは大事だけど、持ちきれないものを手放すことも大事。新たに現れる持つべきもののために、手は空けておかねば。そのきっかけを作るための「区切り」。

 それでは、ちょっと早いけど、皆さんよいお年を!


 ちょっと宣伝。
 私も少しお手伝いをしたバーが大阪南船場にあります。細長い地下の店内は、壁一面に本が並んでいます。
 月に1度、「クリエーターズネスト」というイベントをやっており、作家さんや本作りに関わる方がゲストに来られます。
 前回12月は「怪談社」の怪談師、 紗那さんと紙舞さんが来られ、次回1月は作家のいしいしんじさんが登場とのこと。
 お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
 
 ◆文学バー リズール
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~liseur/index.html 

揺らぎ続ける

 相変わらず、日々はどんどんと進んでいる。
 置いてきぼりにならないように、せっせと歯を磨いたり、自転車を漕いだり、DVDを見たりして過ごしている。
 そうしなければ、というより、そうするほかはないから。
 とりあえず経済を回そうと、毎日仕事で物を売って、その後呑みに行っています。

 最近観たDVDは、「楢山節考」と「リトルミスサンシャイン」と「ミルク」の三作。
 一番印象に残ったのは、深沢七郎作の小説が原作の「楢山節考」だった。姨捨山伝説をベースに、信州の寒村に住む人々を描いた作品である。

 よくもまあ、というのが一番大きな感想。
 よくもまあ、こんなに人間の価値観や生活様式や風習や、なにもかもが、時代によって変化するものだと、驚きを通り越して、ただ圧倒された。
 自分がいままで当然として受け入れてきたもの、というか当然すぎてそれを意識すらしてこなかったものが、ぐらぐらと崩れてゆくのがわかった。
 出てきたシーンの例を挙げてみると、
 年寄りがいつまでも元気なのは恥ずかしいと、老婆が自分の前歯を石に叩きつける。数日前に夫を亡くした女が別の男の後妻となり、当たり前のようにそれを受け入れる。(新しい夫との初夜に「前のより良いわあ」とのたまうw)作物を盗んだ隣人を、村中の男が集まって、家族もろとも生き埋めにする。流産した子どもを近くの畑に捨て置く。
 などなど。どれもこれも、現代の感覚では到底考えられないことだ。
 特に「生」と「死」の捉え方が、今とは全く異なっていることに吃驚する。ひとつひとつのディテールに毒されて、メインとも言えるラストの「姥捨て」が、いつのまにか自然なものにすら思えたほどだ。普段、卑小ながら自分自身が有しているつもりだった持論や価値観が、実は知らず知らずのうちに「時代」というものに洗脳された結果なのかもしれないと、身震いがした。
 この世の中には「正しいこと」などなにひとつとしてない、あるのはその時代や場所のなかで、たまたま作られる「空気」だけだ。その空気に逆らわないよう、あるいはあえて逆らうことで、人間は右往左往しているのだ。
 そんな当然のことを実感した気がした。
 興味深い映画だった。原作の小説も読んでみよう。

 なーんてことを思っていたら、現代にもそのような考えを持ち続けている人物もいるようだ。奇しくも、映画を見た翌日に以下のサイトを見つけて苦笑した。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/20011106josei.htm

 基本的に、私は他人の考え方に干渉しない人間だけど、もろもろの発言を見るにつけ、彼のことは政治家としてはもちろん、なにより小説家として認めるわけにはいかないと思っている。物を創る者にとって、想像力の欠如や視野の狭さは致命的ではなかろうか。

 前回の日記に書いた、被災地の方が無事だったとのこと。本当に、本当によかった。私は、まったくまったくなにもできなかったけれど、逐次情報を取捨選択して公開してくださっていた方のブログや掲示板のおかげで、状況を知ることができてよかった。ありがとうございます。
 もちろんこれからの方がはるかに大変だとは思う。けれど、生きていて、本当によかった。

 まったく話を変えますと、近々結婚することになりました。一年前はまさか「彼」とこんな風になるとは思いもよらなかった。けれど、いまは、こうなることこそ自然だと確信を持って言える。

 人間の考えや感情や人生は、一年かそこらで、いや一分の間にだって大きく変動し得る。私は、そんなあやふやな揺らぎを、見つめながら、記しながら、いつまでも生きていきたい。

ここ数日のこと

 ここ数日、常に淡い疲労感が身を覆っている。
 言うまでもなく、地震の影響だ。

 テレビから、ネットから、次々に悲惨な情景が飛び込んでくる。悲惨すぎて、とても事実とは信じられないほどの。
 物事は、その規模が大きければ大きいほど、現実味を失うらしい。私の小さな脳の許容量をはるかに超えた数の家屋がつぶれ、土地が水に呑まれ、そして人が死んでいる。
 被害が報道され始めた当初は、流れ出る情報ひとつひとつに、呼吸を忘れるほど驚いた。そして胸の奥が苦しくなった。
 けれど数日たったいま、朝から晩まで繰り返し流される映像の前で、私はただ呆然とするばかりだ。

 被害の最も大きいとされている地域に、知っている人が居る。知っているとは言っても、ネット上、しかも私が一方的に触れに行っているだけの人だけど。
 彼のことがとてもとても心配だ。顔も知らないけれど、私は彼の言葉や、そこに見え隠れする生き方に、よく励まされた。還暦を超えてなお漲る生命力に、圧倒されながら、「私も頑張ろう」と思えた。どうしても生きていてほしいと、毎日祈るように思っている。テレビに被災地が映るたびに、よく知りもしない彼の姿を、いつのまにか探してしまう。
 こうして、「彼」というひとりの人間の安否を案じるとき、私にとって今回の災害はリアルに感じられる。けれど、少しでもそこから焦点をずらすと、とたんにすべてが違う星の出来事のように、ぼんやりと輪郭を失うのだ。

 大阪に住む私の日常はなにも変わらない。
 先週と同じように、次から次へと仕事がやってくる。家に帰れば、ごはんを作らなくてはいけないし、三日もすれば洗濯物も溜まる。
 当たり前に、「日常」が目の前にある。

 きっと、それが私の身体を疲れさせているのだろう。
 数百キロ先にある「現実」と、すぐ目の前にある「現実」。あまりに違うものになってしまったふたつの世界にはさまれて、きっと身動きが取れなくなっているのだ。心をどこに置いてよいのか、落としどころを見つけられないまま、身をこわばらせているのだ。

「被災地のために、私たちにいまできることをしよう!」
 そう高らかと声をあげ、募金をしたり、メールを回したり、リツイートをしたり、はたまた歌をうたったり、とにかく動き出している人がいる。
 
「いまの時点で私たちにできることは多くないのだから、とりあえず自分の生活を着実に生きよう」
 そう納得して、日々の暮らしを営み続ける人がいる。

 どちらも真っ当なスタンスだと思う。

 私は、どちらにもなりきれていない。

 募金しなくちゃ。献血しなくちゃ。節電しなくちゃ。私に他にできることはないかな。でもできることなんてたかがしれてるし……。
 こんなにぬくぬくした部屋で暮らしてていいのかな。電気を無駄遣いしてていいのかな。被災者の人は過酷な状況にいるのに。
 正直、毎日つらいニュースばかりで気が滅入るな。そろそろ普通の番組が見たい。けど、そんなことをいうのは「不謹慎」かな。「非常識」かな。
 いや、いいよ、それとこれとは別だよ。私は私の現実をちゃんと生きなきゃ。明日も仕事に行かなきゃ。そのために早く寝なきゃ。

 でも。でも。でも……。

 頭の中で思考をぐるぐるぐるぐる回し、自分に言い訳や誤魔化しをしながら過ごしている。
 支援者にも、当事者にも、傍観者にも、偽善者にすらもなれないまま、立ち尽くしている。 

 世の中は、悲しい出来事で溢れている。今回の震災で被害に遭われた人だけじゃない。その日の食べ物がなく飢える人も、突然の事故で命を失う人も、理不尽に殺されてゆく人も、山ほどいる。もしかしたら、いままさに私の隣の部屋で虐待されている子供もいるかもしれない。

 その中で、私はどんなことを思って生きていけばいいのだろう。どこまでの範囲に心を寄せればいいんだろう。そもそもこんなことを考えることすら、人としておかしいんじゃないだろうか。

 そんなことを考えると、ちょっと気が遠くなる。

 でも、もしかしたら、そんな風に自分の心の置き場所を見失っている人は、たくさんいるんじゃないだろうか。みんながみんな、なんとなく「こう感じねばならない」という枠を知らぬ間に作りあい、けん制しあい、縛りあい、そのなかで自らがんじがらめになっているんじゃないだろうか。どうだろう。わからないけれど。

 あ、いま、揺れた。

 静岡を中心に、また広範囲で地震が起こったようだ。怖い。心細い。ほんとうに、もう嫌だ!

 なんだかんだ言っても、結局はごく狭い範囲のことしか考えられないんだよな。

 私の知っている人が、私の好きな人が、私が、どうかなにごともなく明日を迎えられますように。

 エゴでしかないけど、エゴでしかないからこそ、そう切実に願う。

わたしくらい思い通りでもいいのに

 今日も大阪は雨。

 ざあっと降ってはすこし止み、過ぎ去ったと思えばまた降り出す、という落ち着きのない空だった。

 例によって自転車で出かけたのだが、風が強くてまいった。会社に着くまでに三回傘が裏返り、そのたび降りて直すものだから、いつもの倍を走った気分だった。裏返った傘って、とってもまぬけですよね。それを差しながらふらふら蛇行するわたしも情けない姿だったろうなあ。

 今週末には、なんと台風がくるらしい。そのことを別の地方のひとに告げると「大阪は、季節が一か月遅れてやってくるの?」と訊かれた。そうかもね、と適当に流したけれど、実際時間軸が捻じ曲がっているのかもしれない。

 んなわけないじゃん。

 週末は、IKEAに買い物に行って、そのあと後輩のライブに出向くつもりにしているが、もしかしたら両方叶わなくなるかも。どちらも楽しみにしていたのに、ざんねんだ。気合でなんとかできないかしら。「ふんっ」と手を振り回して、台風の進行方向を力づくで曲げる妄想をしている。

***

 話があちこちに飛ぶけれど、最近また寝つきが悪くなってきた。

 眠気を感じて布団に潜りこんでから、実際に意識が消えるまでがとても長い。

 うつらうつらしては、それを遮るように、頭のなかにぽつんとなにかが浮かぶ。それは、ひとつの単語だったり、ひとかけらの映像だったり、どちらとも言えないようなかすかな気配のときもある。

 どこからやってきたのか、なんのためにやってきたのかさっぱりわからない。

 そのなにがしかは、眠りの世界からぐいっとわたしを引っ張り上げて、なんとか覚醒させようとする。寝たら死ぬぞと言わんばかりだ。余計なお節介より、安らかに死なせてくれと言いたくなる。

 昨夜も結局三時間ほどしか寝られず、今朝はどんよりとした頭で目覚めた。遭難して生き延びたひとは、そう爽快でもないのかもしれないと思う。

 寝たいのに眠れない、とか、考えたくないのに脳に思念が浮かぶ、とか、どうしてなんでしょうかね。自分の身体なのに、自分でコントロールできないのは、一体なぜなんでしょう。わたしの肉体はわたしの持ち物じゃないのかな。世の中思い通りにならないことばかりなのだから、わたしくらいは言うこと聞いてくれたっていいのにね。

 なんていう愚痴を愚痴愚痴いってたら、今夜も眠りを逃しそうだ。

 

  

ここ一か月の赤いものと黒いもの

 夏休みどころか、もう秋すら終わろうとしている。

 そろそろ更新したいと思いつつ、なんとなく気が乗らなくて、またもや放置してしまっていた。一日いちにちは長く感じるのに、振り返ると、ひと月なんてすぐに過ぎている。時間の流れの法則を、わたしはまだうまく掴めていない。

 季節は確実に冬に向かって進んでいて、だんだん肌が乾燥してゆくのがわかる今日この頃だけど、日々わたしがやることに、そう変わりはない。相変わらず、毎日同じ時間に仕事に行き、夜は酒を呑んで、すこし小説を書いたり読んだりして過ごしている。(このフレーズはこのブログに何度登場してるだろう……)

***

  最近自転車通勤を始めた。といっても、マンションから会社まで十五分足らず、たいした距離じゃない。けれど、会社に着くころには、よい具合に体があたたかくなり、適度な運動になっている気がする。この季節は、空気の柔らかさもちょうどいい。夏のようにぐにゃりとしていないし、冬のようにするどくない。ブレーキをかけずに坂をくだると、さわさわと顔にあたる風が心地よい。ただそれだけで、すこし得した気持ちになる。今日みたいに雨の日は、眼鏡が曇ってうっとうしいけれど。
 自転車は赤い色にした。ふだんなら、鮮やかすぎてあまり選ばない色。年を取ると、無意識に明るいものに近づきたくなるんだろうか。それとも、今のわたしは変化が欲しいのだろうか。なにわともあれ、とても気に入っている。

***

 先週末、喪服を買った。久しぶりにもとめる服が黒いワンピースだということに、気が塞いだ。例年であれば嬉々として秋服を揃える時期なのに。
 ここ数年で、いくどか通夜や葬式に出向く機会があった。その都度、わたしは、その場に居る自分を持て余している。
 100%悲しみに入り込むこともできず、100%傍観者であることもできず、涙にくれる人々のなかで途方に暮れるのだ。のっぺりとしたスクリーンに映された映像を、ひとり外側から眺めている気分を味わいながら。それは故人がとても親しい知人や身内であっても、変わらない。
 わたしは、本来人間が持つべきであるなにかしらの感覚が鈍いんじゃないだろうかと、ときおり不安になる。けして悲しくないわけじゃない。無念さがないわけじゃない。だから、わたしはいつも自分の心の奥にある悲しみに意識を集中させようとする。悲しみを増幅させて、それに身を浸そうとする。すこしでも気を抜くと、即座に入り込んでこようとする冷たい傍観者の目から逃れるために。
 それはうまくゆくときもあるが、たいていはしくじる。いずれにせよ、式が終わる頃には、わたしはどっと疲れている。強い自己嫌悪とやりきれなさを持って、帰路につくことになる。
 このたびも、そうだった。買ったばかりの暗い色の服と靴で身を隠すように、泣き崩れる輪から抜け出した。
 涙にならなかった感情は、いまだにぐじゅぐじゅと心にへばりついている。

***

 ひさしぶりに書く日記だからと爽やかを意識して書き始めたはずが、どうにも暗いものになってしまった。見てくれている人、ごめんなさい。
 けれどまあ、心の動きを書き残すことが目的の日記なので大目に見ていただけると幸い。

 お口直しに、フィンランドで見つけた可愛い鳥さんを載っけとこう。

R0013426_edited1  鳥が好きです。わたしの部屋は、カーテンも布団カバーも間接照明もバスマットも、鳥モチーフのものだらけ。

 ではおやすみなさい。

もう夏休みでも子どもでもない秋の夕べ

 昨日は神奈川県の厚木で仕事があった。B1グランプリというイベントに社が関わっているので、応援に駆り出されたのだ。
 炎天下の中、ビラ配りと撮影をしていたのだが、あまりの人の多さと、アスファルトからの照り返しの強さに閉口した。
 わざわざ好き好んでやってくるお客さんたちに脱帽する。仕事じゃなかったら、私はぜっっったい行かない。
 汗だくになりながら声を上げて走り回っていたが、十万部も刷ったチラシが捌けるはずもない。同行者と互いの健闘をたたえながら、二時過ぎには会場をあとにした。哀しいかな、結局B級グルメはひとくちも食べられなかった。ひとくちも!
 悔しいから会場近くの焼き肉店で「厚木シロコロホルモン」と「横手やきそば」を注文した。やきそばは、供された瞬間から冷たかった。かなしすぎる……。

 今日は昨日の疲れを癒やすべく、朝からお酒を呑んだり、小説を書いたりしてゆっくり過ごしている。小説はひとに読んでもらったりしつつ、すこしだけ進んだ。

 昼過ぎに一時間ほど昼寝をした。起きてみると、蚊に刺された跡が計五つ。そのうち一つは額の端でぷっくり膨れている。タンコブみたいだ。
 私はどうやらとても蚊に好かれやすいたちらしい。同じ部屋で寝ていたはずのひとはまったく無事だったのに……。アラサーにもなっておでこにタンコブだなんて。恥ずかしい……。
 いまは蚊取り線香を焚いている。とても懐かしい匂いがする。田舎の祖母の家の匂いだ。
 蚊取り線香の煙と扇風機の風、夕方のニュース、窓の外から聴こえる虫の声。
 幼いころの夏休みにタイムスリップしたような気持ち。
 とても平和で、すこし心もとない。
 もう夏は終わってしまったし、もう子どもでもないんだなあ。なんて、感傷に浸っておりますよ。
 大人な私はビールでも買いにいこうかしらね。
 おでこにタンコブつけて。

一歩進んで二歩下がる

 数日間悩まされていた口内炎が治った。うれしい。

 でもその代わりにあごにニキビができた。痛い。

 一喜一憂。一進一退。

 小説が書けない。この能無しが、と自分を罵っている。

 でもちょっとでもよいと感じられるものが書けたら褒めてやろうと思う。

 

 今日は眠ります。おやすみなさい。

秋の夜と梅酒とわたし

 朝晩はすっかり秋の気候ですね。肌に触れる空気の温度がここちよい。朝の出勤の時間が、すこし億劫ではなくなりました。

 私は秋が大好きなんです。この季節がいつ終わるかなんて考えると、心がざわざわするから、いっそ早く冬になってほしいと思うほど、大好きなんです。

 そう、秋はとても足が速い。顔を見せたかと思うと、すぐにきびすを返して去ってしまう。まったく落ち着きがない。

 だけど、そのあっけなさが、いい。そっけないものほど愛おしく感じるのは乙女の性なのかしら。いや、たぶん私のたちなのでしょう。

 秋の夜に似合うお酒は梅酒かな、と思って、いまちびりちびりと舐めながらこれを書いています。

 甘いお酒は苦手だったはずなのに、最近めっきり弱くなったせいか、糖分が喉にここちよい。柔らかい布に体全体が包まれているようなふわふわした感覚。

 お酒は酔っぱらうためのものではなく、いがいがしたものを丸めるためのものじゃあなかろうか、と思う昨今。

 いがいがしたもの。疲れとか、不安とか、さみしさだとか。

 心にできたささくれを、少しずつならして、すべすべのものにしてくれる。

 だけど、油断は禁物なのです。ちょっとばかし度を越すと、逆にいがいがを際立たせてしまうのが、お酒の怖いところ。ふわふわのすべすべに安心しきったところに、ちくり、ちくりと棘を刺すのです。新たないがいがをこしらえるのです。

 細かい棘は、私の心に穴を開け、いつのまにか大きな空洞をつくる。ぽっかり空いた暗い穴には、どんどん冷たい風が送り込まれる。こんな秋の季節は、特に。

 それは、とても哀しい感触なのです。泣きたくなるほどの。実際に涙してしまうほどの。

 しかし、私はその感触が、嫌いではない。むしろ、おのずから求めてしまう。

 結局、いちばんやっかいなのは、季節でもお酒でもなく、私自身なのでしょう。

*

 最近よく観ている動画

 フジファブリック、森山未來、大根仁……って、好きなものが詰め込まれすぎてやばい。

 未來くん、ほんとかっこいいなあ……。

 さ、小説書こうっと。

ハナキン

 今日もひとりで家にいます。
 さすがに金曜日だからちょっと飲みにいきたいなあと思ったけれど、当日に誘えるような友達も思い浮かばないし、いたとしても気軽にほいっと誘えるような性格でもないので仕方がない。
 恋人に「花金やのにひとりやあ」と電話でこぼしたら「花金って……。もしかしてサバ読んでる?」と返された。
 えー、花金って素敵な響きじゃんよ。解放感と華々しさが凝縮されてる感じ。私は使うよ、いつまでも。

 で、いまはテレビで高校生クイズを観ています。
 とってもおもしろい。いやあ、出演している彼らはすごいね。知識量がはんぱない。脳みそって、こんなにいっぱい蓄積容量があるんだなと感心しきりです。
 男爵イモの「男爵」って誰のことか知ってます? 日本の首相で五十音順で最後の人は誰か知ってます? 「空空しい」ってなんて読むか知ってます?
 自分の生活といっさいかかわりのないこんな諸々を、頭にストックしておけるのが驚きだ。私にはとてもそんな余裕はない。唯一答えられた問題が「ロールシャッハテスト」w いやそこは、さすがにね。
 知識イコール頭のよさってーのはなんか違うと思うけれど、普段から細々とした事象を意識化して、体内に留めておけるのは、やはりある種の能力なんだろう。
 甲子園やインターハイで汗を流すスポーツ少年少女より、嬉々としてなんの役にも立たない雑学を披露する若者を見る方が、私にはカタルシスを与えるようだ。どこまでもインドアでオタク気質なことを再認識w 女子も男子もみんなもてなさそうなところもシンパシーだよ。
 大いに青春を満喫してほしいと思います。

 おお、そうこうしているうちに今日開けたばかりのワインがもうすぐ空きそうだ。
 今日は気持ち悪くもならずにほろ酔いでよい気分。
 明日は朝から洗濯と掃除をして、実家に帰る予定です。

 あさっては妹の出産祝賀会。ここまでくるのにいろいろと紆余曲折があり、きっと今後も曲がりくねった道を進むことになるのだろうが、姉としてはできる限り心穏やかに生きていってほしいと願っている。
 とりあえずあさっては、綺麗なウェディングドレス姿を眺め、おいしいフレンチを食べて、涙もろい父の酒に付き合おうと思う。
 よい始まりの日になりますように。

ここちよい世界

 今日は仕事を終えてまっすぐ帰ってきた。
 近頃、夜に予定がないことに安堵する自分がいる。「今日はなにもない」と思うと、にわかに心がウキウキする。鼻歌のひとつでもうたいたくなる気分。
 少し前までは、スケジュールに空きがあるのがなんだか惜しいようなこわいような気がして、せっせと飲みにいく約束をしていたのに。
 どういう心境の変化かはわからないけれど、たぶんいまは、平坦で穏やかな時間が体に馴染むんだろう。ひとりの空間を欲してるんだろう。

 家に着いて、茄子ときのこと卵入りのそうめんチャンプルを作って、酎ハイとともに地味な晩御飯を終えた。
 テレビではダウンタウンが昔話をする番組が流れていて、出演者が二十年ほど前の話を次々にまくしたてている。みな生き生きとして見える。
 ひとってやっぱり過去が好きだよなあ。どんなしんどいこともどんな哀しいことも、いまとなっては「終わってしまったこと」だから余裕をもってながめられる。少なくとも、その時以上に自分を傷つけることはない。
 かくいう私も思い出話が大好きだ。あのときはこうだった、ああだった、と古くからの友人とともに記憶を辿るのはとても心地よい作業だ。ぬるいお湯に身をたゆたわせているような安心感。
 できうるならずっとつかっていたいけれど、もちろんそうはいかなくて、いくら適温でもつかり続ければのぼせるし、肌が風を欲してしまう。それが身をすくませるような冷たい風だと知っていても。
 過去は気持ちいいから、ひとは過去が好きだ。けれど気持ちいいことだけがひとを満たすわけじゃない。そういう性質を備えているのが、ひとの面倒くさいところでも愛すべきところでもあるような気がする。

 なーんてことを思いながら焼酎をウーロン茶で割って飲んでいます。
 さて、昨日買った小説でも読もうかしら。
 私にとって小説を読むことや書くことは、違う世界に飛び込むことだ。自分の生活のほんのそばに横たわる異なる時空の流れに足を踏み入れること。ときどきふたつの世界が交差することももちろんある。
 それは過去を振り返ることや未来を見据えることと同じくらい、私には重要でここちよい営みなのです。


 
 

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