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2011年3月

揺らぎ続ける

 相変わらず、日々はどんどんと進んでいる。
 置いてきぼりにならないように、せっせと歯を磨いたり、自転車を漕いだり、DVDを見たりして過ごしている。
 そうしなければ、というより、そうするほかはないから。
 とりあえず経済を回そうと、毎日仕事で物を売って、その後呑みに行っています。

 最近観たDVDは、「楢山節考」と「リトルミスサンシャイン」と「ミルク」の三作。
 一番印象に残ったのは、深沢七郎作の小説が原作の「楢山節考」だった。姨捨山伝説をベースに、信州の寒村に住む人々を描いた作品である。

 よくもまあ、というのが一番大きな感想。
 よくもまあ、こんなに人間の価値観や生活様式や風習や、なにもかもが、時代によって変化するものだと、驚きを通り越して、ただ圧倒された。
 自分がいままで当然として受け入れてきたもの、というか当然すぎてそれを意識すらしてこなかったものが、ぐらぐらと崩れてゆくのがわかった。
 出てきたシーンの例を挙げてみると、
 年寄りがいつまでも元気なのは恥ずかしいと、老婆が自分の前歯を石に叩きつける。数日前に夫を亡くした女が別の男の後妻となり、当たり前のようにそれを受け入れる。(新しい夫との初夜に「前のより良いわあ」とのたまうw)作物を盗んだ隣人を、村中の男が集まって、家族もろとも生き埋めにする。流産した子どもを近くの畑に捨て置く。
 などなど。どれもこれも、現代の感覚では到底考えられないことだ。
 特に「生」と「死」の捉え方が、今とは全く異なっていることに吃驚する。ひとつひとつのディテールに毒されて、メインとも言えるラストの「姥捨て」が、いつのまにか自然なものにすら思えたほどだ。普段、卑小ながら自分自身が有しているつもりだった持論や価値観が、実は知らず知らずのうちに「時代」というものに洗脳された結果なのかもしれないと、身震いがした。
 この世の中には「正しいこと」などなにひとつとしてない、あるのはその時代や場所のなかで、たまたま作られる「空気」だけだ。その空気に逆らわないよう、あるいはあえて逆らうことで、人間は右往左往しているのだ。
 そんな当然のことを実感した気がした。
 興味深い映画だった。原作の小説も読んでみよう。

 なーんてことを思っていたら、現代にもそのような考えを持ち続けている人物もいるようだ。奇しくも、映画を見た翌日に以下のサイトを見つけて苦笑した。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/20011106josei.htm

 基本的に、私は他人の考え方に干渉しない人間だけど、もろもろの発言を見るにつけ、彼のことは政治家としてはもちろん、なにより小説家として認めるわけにはいかないと思っている。物を創る者にとって、想像力の欠如や視野の狭さは致命的ではなかろうか。

 前回の日記に書いた、被災地の方が無事だったとのこと。本当に、本当によかった。私は、まったくまったくなにもできなかったけれど、逐次情報を取捨選択して公開してくださっていた方のブログや掲示板のおかげで、状況を知ることができてよかった。ありがとうございます。
 もちろんこれからの方がはるかに大変だとは思う。けれど、生きていて、本当によかった。

 まったく話を変えますと、近々結婚することになりました。一年前はまさか「彼」とこんな風になるとは思いもよらなかった。けれど、いまは、こうなることこそ自然だと確信を持って言える。

 人間の考えや感情や人生は、一年かそこらで、いや一分の間にだって大きく変動し得る。私は、そんなあやふやな揺らぎを、見つめながら、記しながら、いつまでも生きていきたい。

ここ数日のこと

 ここ数日、常に淡い疲労感が身を覆っている。
 言うまでもなく、地震の影響だ。

 テレビから、ネットから、次々に悲惨な情景が飛び込んでくる。悲惨すぎて、とても事実とは信じられないほどの。
 物事は、その規模が大きければ大きいほど、現実味を失うらしい。私の小さな脳の許容量をはるかに超えた数の家屋がつぶれ、土地が水に呑まれ、そして人が死んでいる。
 被害が報道され始めた当初は、流れ出る情報ひとつひとつに、呼吸を忘れるほど驚いた。そして胸の奥が苦しくなった。
 けれど数日たったいま、朝から晩まで繰り返し流される映像の前で、私はただ呆然とするばかりだ。

 被害の最も大きいとされている地域に、知っている人が居る。知っているとは言っても、ネット上、しかも私が一方的に触れに行っているだけの人だけど。
 彼のことがとてもとても心配だ。顔も知らないけれど、私は彼の言葉や、そこに見え隠れする生き方に、よく励まされた。還暦を超えてなお漲る生命力に、圧倒されながら、「私も頑張ろう」と思えた。どうしても生きていてほしいと、毎日祈るように思っている。テレビに被災地が映るたびに、よく知りもしない彼の姿を、いつのまにか探してしまう。
 こうして、「彼」というひとりの人間の安否を案じるとき、私にとって今回の災害はリアルに感じられる。けれど、少しでもそこから焦点をずらすと、とたんにすべてが違う星の出来事のように、ぼんやりと輪郭を失うのだ。

 大阪に住む私の日常はなにも変わらない。
 先週と同じように、次から次へと仕事がやってくる。家に帰れば、ごはんを作らなくてはいけないし、三日もすれば洗濯物も溜まる。
 当たり前に、「日常」が目の前にある。

 きっと、それが私の身体を疲れさせているのだろう。
 数百キロ先にある「現実」と、すぐ目の前にある「現実」。あまりに違うものになってしまったふたつの世界にはさまれて、きっと身動きが取れなくなっているのだ。心をどこに置いてよいのか、落としどころを見つけられないまま、身をこわばらせているのだ。

「被災地のために、私たちにいまできることをしよう!」
 そう高らかと声をあげ、募金をしたり、メールを回したり、リツイートをしたり、はたまた歌をうたったり、とにかく動き出している人がいる。
 
「いまの時点で私たちにできることは多くないのだから、とりあえず自分の生活を着実に生きよう」
 そう納得して、日々の暮らしを営み続ける人がいる。

 どちらも真っ当なスタンスだと思う。

 私は、どちらにもなりきれていない。

 募金しなくちゃ。献血しなくちゃ。節電しなくちゃ。私に他にできることはないかな。でもできることなんてたかがしれてるし……。
 こんなにぬくぬくした部屋で暮らしてていいのかな。電気を無駄遣いしてていいのかな。被災者の人は過酷な状況にいるのに。
 正直、毎日つらいニュースばかりで気が滅入るな。そろそろ普通の番組が見たい。けど、そんなことをいうのは「不謹慎」かな。「非常識」かな。
 いや、いいよ、それとこれとは別だよ。私は私の現実をちゃんと生きなきゃ。明日も仕事に行かなきゃ。そのために早く寝なきゃ。

 でも。でも。でも……。

 頭の中で思考をぐるぐるぐるぐる回し、自分に言い訳や誤魔化しをしながら過ごしている。
 支援者にも、当事者にも、傍観者にも、偽善者にすらもなれないまま、立ち尽くしている。 

 世の中は、悲しい出来事で溢れている。今回の震災で被害に遭われた人だけじゃない。その日の食べ物がなく飢える人も、突然の事故で命を失う人も、理不尽に殺されてゆく人も、山ほどいる。もしかしたら、いままさに私の隣の部屋で虐待されている子供もいるかもしれない。

 その中で、私はどんなことを思って生きていけばいいのだろう。どこまでの範囲に心を寄せればいいんだろう。そもそもこんなことを考えることすら、人としておかしいんじゃないだろうか。

 そんなことを考えると、ちょっと気が遠くなる。

 でも、もしかしたら、そんな風に自分の心の置き場所を見失っている人は、たくさんいるんじゃないだろうか。みんながみんな、なんとなく「こう感じねばならない」という枠を知らぬ間に作りあい、けん制しあい、縛りあい、そのなかで自らがんじがらめになっているんじゃないだろうか。どうだろう。わからないけれど。

 あ、いま、揺れた。

 静岡を中心に、また広範囲で地震が起こったようだ。怖い。心細い。ほんとうに、もう嫌だ!

 なんだかんだ言っても、結局はごく狭い範囲のことしか考えられないんだよな。

 私の知っている人が、私の好きな人が、私が、どうかなにごともなく明日を迎えられますように。

 エゴでしかないけど、エゴでしかないからこそ、そう切実に願う。

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