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2010年4月

とりとめのないこと

 昨日遅くまで電話で話していたので、いつも早起きの私にはめずらしく、目覚めたら9時前だった。メールの着信音がなかったら、あと一時間は寝ていたかもしれない。好きな人の声を聞いて一日が終わり、好きな人のことばで一日が始まる、のんびりとした休日。

 朝ごはんは、鮭フレークと温泉卵と韓国のりとお米。私の中の黄金組み合わせ。昔から、なぜか鮭とごはんのマッチングが好きで好きでたまらない。一日三食それでもまったく平気。食べ物関係の仕事に携わっていて、うまいとされるものを食す機会も多いくせに、自分自身の嗜好はいたって地味なのだ。あとは、エリンギとかおくらとかかっぱ軟骨とかがたまらなく好き。ぜんぶ脇役だね。メインストリートを大手振って歩いているものより、影でいい仕事するものが、どうも好みのようです。好む男性の種類もそんな感じだしな。

 朝食の残りの韓国のりを噛みながら、昼間から黒ビールを呑んでいる。軽井沢のブルワリーがつくった「TOKYO BLACK」というエールビール。うまい。以前知人にすすめられてから、その濃厚で香ばしい味にたちまちはまってしまった。即座にメーカーに連絡して、仕事でも取り扱うことにしたほど。そのおかげで今はただでサンプルが呑めたりします。うしし。まあそれくらいの役得は許されるだろう。

 レースのカーテン越しにやわらかい光が入り、キーボードを照らしている。今日は春らしい陽気みたいだ。ここ数日間、暑くなったり、雪が舞ったり、急に肌寒くなったり、どうにもヒステリックな天候が続いていた。情緒不安定な私のようだ。口では周囲と一緒に「どうなってんの。地球やばいよね」なんてぶちぶち文句を吐いていたが、内心ではそんなこともあるさと思う自分がいる。温暖化とかエコとかには、はっきり言ってまるで関心がないのだ。人間がおよぼす影響のせいで、生態系が崩れてるだの、地球環境が急激に悪化しているだの言うけれど、人間が誕生して現在の文明を突き進めていること自体が、地球の歴史にとって必然だったのだから、それだけを取り出して特別非難するのは違和感がある。氷河期に恐竜が滅びたことや山が噴火するのとどんな違いがあるというのだろう。まあ私が生きるあと数十年の間にぶっこわれなければそれでいいや、くらいにしか思ってません。私が死んだあとの世界がどうなろうと知ったこっちゃない。……と言いながら、すぐ周りにある美しい田舎風景がいつか穢れるのは嫌だな、なんて思っちゃう私は、エゴイズムまるだしの人間なのだろう。

 なーに言ってんだか。早くも酔っ払ったか。ビール二本目に突入。ふわふわよい気持ち。

 いま私が幸福を感じているこのときに、世界中の人々も幸福な気持ちだったらいいのになとかちょっと思った。ザ・偽善。まあいいや、こんなふうに思える日もあっていいだろう。

浮上中


 昨日の日記を読んだ友人から心配のメールが届いた。温かいことばがいっぱい並んでいた。記事に励ましのコメントをくださった方もいる。うれしくて、申し訳なくて、仕事中なのにすこしだけ泣いた。
 
 私は幸福な人間だな。

 落ちこんでいたのに特別な理由はないのです。自分がいろいろなところで吐くことばがどれもこれも薄っぺらく思えて、嫌気がさしていました。なにごとも考えすぎるくせに、アウトプットできるのはいつもつまらないことばかりで、自分の浅はかさがつくづく恨めしかったの。じわじわと苦しかった。

 けれど、おかげさまで、すこし浮上中です。

***

 今日の仕事は校正中心。
 半年前に企画したカタログの念校が上がってきたのでチェック。自画自賛だけど、いいものに仕上がっている。なんというか、企画と商品と表現がばしっと決まっていてブレがない。これは、企画(私)とバイヤーと制作がきっちり意思疎通して、同じものを見据えているからだ。普段ストレスばかりがたまる仕事だけど、こういう時はしみじみと幸せな気持ちになる。
 
 仕事がうまくいくかどうかは、うまく関係構築できているかに因るところが大きいなあと実感している。
 数年前、ベテランばかりの部署に単身放り投げられた当初は不安でしかたなかった。おっちゃんたちは私のことをあからさまに「ちっちゃいオンナノコがなんか言ってるな」程度にしか見てなかったから、意見ひとつ通すのも骨が折れた。おっちゃんたちは優しいから、話自体は聞いてくれたけど、信用されていないことはあきらかだった。
 表面だけ「うんうん」と頷かれる優しさが、馬鹿にされているようでみじめだった。今考えたら、聞き流されて当然の拙さだったんだけどね。頭でっかちで、リアリティや客観性に欠けた主張ばかり。くわえて私は人前で話すのが下手だから、必死に考えたものもまったく相手に伝わらず、もどかしさにイライラしてばっかりだった。よくトイレで泣いた。
 今は、互いにきちんと目線を合わせて話ができる。私の目線まで腰をかがめてもらうのではなく、私が背伸びをするのではなく、同じ高さで正対している。きっと私の足の下に、踏み台ができたんだろう。
 この数年間で、せっせと踏み台を作ってきた。幾度も鼻をつきあわせて話したり、頭をひねって何枚も企画書を書いたり、ともに呑みにいったり、呑みにいったり、呑みにいったり……。
 そんな中で、徐々に踏み台は高くなり、私の目線もあがってきた。近頃は、むしろ上から目線で言いたい放題だ。それでもおっちゃんたちは「俺らは下僕やからな」とかなんとか言いながら、きちんと動いてくれる。

 普段から後ろ向きで、うじうじと自己嫌悪に陥ってばかりだけど、こんな風に踏み台を築いてきた自分を、私はもうすこし認めてあげてもいいんじゃなかろうか。
 自分の夢に向かってまっすぐ努力をしたり、着実に生活を築いたりする友人たちの姿を羨んで、妬んで、焦っていた。仕事くらいしかしていない自分が、なんだかくそつまらなかった。文章だって思うように書けないし。

 けれど、そのなかで着実に積まれてきたものがあるのを、私はもうすこし誇ってもいいんじゃなかろうか。たとえちっちゃくても。たとえ本当に欲しいものでなくても。

 温かい人たちのおかげで、ちょっとだけそんな風に思えてます。

***

 さ、昼休み終わり。しごとしごと。
 土日は本をいっぱい読んで、いっぱい文章を書いて過ごそう。


 

憂鬱の原因

たぶん、じぶんへの自信がなくなってるんだ。
もともとあんまりないけど、さらに。
わたしなんか…って思ってしまう。わたしなんか死んでしまえばいいのに。

あーなんにも考えたくない。だれとも関わりたくない。

じゃあなんでブログなんか更新してるんだろ。
結局、かまってちゃんですか。

とめて

朝から憂鬱が止まらな~い。消えた~い。

…こんなに沈んでるのに、なぜか頭の中ではC-C-Bがエンドレスリピートされている。非常にきもちわるい。
ロマンチックより憂鬱を止めてくれよ。あーあ。まったくうまくない。あーあ。

よし、明日は休もう。


 今日は少しこころが軽い。

 というか愚痴を言うことに飽きたよ。
 仕事だって、今の生活だって、ぜんぶぜんぶ自分で選んできたことだ。
 これからどう生きてくかだって、ぜんぶぜんぶ自分で選んでいけるのだ。

 文句ばっかり言ってるけど、仕事自体は決して嫌いじゃないんだ。
 何百万もの人に見てもらえるものをいちから創っているという意地もやりがいもある。そんな仕事で飯が食えるのはありがたいことだと思う。
 サラリーをもらうためにヘイコラしつつも、私にとってはある意味でひとつの表現の場でもあるのだ。

 いまつらいのは、それ自体を楽しめる余裕があまりにもないこと。物理的な雑事に、本来のやりたいことが埋もれそうになっていること。
 でもそれですら、よく考えたら自分で「悩み」を作っている気がしないでもない。いまの状況に不満を持つということは、いまよりもっとよい状況があるはずだとどこかで思っているからだ。いまの自分が本来ではないなんて感じてるのかな。ある種の安定に呑みこまれたくないなんて危惧しているのかな。ああ、なんと青臭い。きっと私は自分で思うより贅沢で欲張りな人間なんだろう。

 でもここでケツまくって逃げたらだめだろうな。会社のためとかそんなんではなく、もちろん自分の納得のために。
 自ら選んだ食い扶持すら簡単に放り投げるようじゃあ、結局私はなんにもできないままだ。小説だって書けないだろう。
 私は凡庸な人間だけど、だからこそ、凡庸な人間が日々生きるためにあがく姿を切実に描きたいと思う。そのためには、必死に凡庸を生きなくっちゃ。見つめなくっちゃ。

 でも基本的に「がむしゃら」は性に合わないナマケモノなので、気ままに生きていけたらいいなあなんて思います。

 ということで、さっそく明日有休とっちゃった♪

ため息ではなく、これは深呼吸なんです。と、自分に言い聞かせる。

 最近、暗い日記ばっかり。読んでくれている人はこんなの読んでおもしろいのかな。たかが日記といえど、どうせなら他の人にとって興味深いものが書けたらなと思うんだけど、なかなか……。

 といいつつ、楽しく描けることなんかあまりない日常。

 今日もまた新しい仕事が降ってきた。ただでさえ忙しいのに、ほんとこれからやっていけるのかな。「無理です」って言うのは簡単だし、実際言ったし、でもだからといって業務自体がなくなるわけじゃないから、結局は自分がやらなきゃいけないのはわかってて、けどそうやって引き受ければ引き受けるほど、自分を追い詰めることになって……。ああ、どうしようもない。

 そんな状況に置かれてる自分がなんだか馬鹿らしくなって、会議中涙が出そうになった。いつ辞めようかと、そればかり考えてた。貯金額を思い浮かべながら、月10万で暮らしたら数年はもつかしら……なんてシュミレーションしたり。

 世の中にはもっと過酷な仕事をしている人はごまんといるのだから、こんなので心折れるなんて甘っちょろいとも思うんだけど、実際私がつらいのだから、もうそれは勘弁してよと思ってしまう。仕事をするために生きているわけじゃないのになあ……。

 ああ、だめだだめだ。ひとりよがりな愚痴を吐いたって、こころが晴れるわけじゃあない。

 救いは、周りの人々が気遣いをくれること。君ばっかり大変やなあ、ほんま無理すんなよ、なんて言いながら励ましてくれる同僚がいること。物理的にはなんの助けにもならないけれど、少しは気が和らぐ。逆に、そんな気を遣わせてしまう自分の余裕のなさにまたへこんだり……。

***

 こういうときに聞く、「好き」ということばはなんて甘美に響くのだろう。

 人の好意に寄りかかるのは弱い人間のすることだね。だけど、そのおかげで明日も生きられるのだから、たぶん悪ではないんだろう。酒や薬に頼るよりはいくらか健康的な気もするし。もしかしたら依存性はより強いのかもしれないけれど。

***

 まあ、なんちゅうか、がんばろう。てきとうに。

 ふーーー。

 

 

 

 

無力。(追記しました)

 昔から「虐待」ということばに異常に反応してしまう自分がいる。

 自分自身、虐待を受けて育った事実はないし、周囲の人間にそういった過去を持つ人がいたわけでもない。

 けれど、ニュースで児童虐待を扱ったものを目にすると、不思議なほどこころがかき乱され、いたたまれない気持ちになる。

 この感情は焦りに近い。まったく見知らぬ範囲で起きた出来事であるのに、己がそれになにひとつ対処できなかったことに、たとえようのない無力さを感じて、つくづく自己嫌悪に陥る。

 大学時代、心理学を専攻していた。

 私の研究室の担当ではなかったが、虐待の研究をする西澤哲さんという助教授がいた。

 研究ということばからは、客観的かつ俯瞰的に事象を見つめるさまを連想するが、彼は実際に虐待が起こる現場に身を起き、自身を投げ打って取り組みを行う臨床家であったと記憶している。

 いま「自身を投げ打って」と書いたが、まさにそうなのだ。授業の中で、彼が事実体験した悲惨な出来事を幾度も耳にした。身体中になまなましい傷を持つ痩せ細った少年。その少年を隔離施設から取り戻すために、職員に刃を向ける両親。西澤さん自身も一度、激情した親から電車の迫り来る駅のホームに突き落とされたことがあるそうだ。

 当時の私は、ただただその凄まじさに怯えた。自らの子を痛めつけなくてはいられない親の狂気に震え、その暴力になすすべなくいたぶられる幼子の痛みに胸が掻き毟られた。なぜこんなに理不尽なことが起こりうるのだろうと、自分が生きている世界にすら絶望を感じた。

 けれど、そうするだけで、私はなにもしなかった。児童支援施設を志すこともなく、カウンセラーへの道を選ぶでもなく、のうのうと自分にとって心地よい人生を歩んでいくことに腐心した。西澤さんの著作は読み漁ったけれど、ただそれだけだ。あくまで私は「興味」や「知識」として虐待を受け入れただけだった。

 今日また、yahoo!のニュースで痛ましい事件を知った。

 父親が0歳の長男の頭部を水道の蛇口にぶつけるなどの暴行を加え、くも膜下出血を起こさせたというものだ。父親は「育て方が分からず、意味もなく泣くのでイライラしてやった」と証言しているらしい。

 例のごとく、私のこころはひどく落ち込んだ。言いようのない憂鬱さが喉をせり上がった。けれど、私のこの感情は、やはり他人事なのだろうと思う。もう起きてしまった惨事に、後追いで偽善的な同情を重ねているだけ。その証拠に、きっと数日後の私はこのニュースを忘れるのだろう。そして、また新たな事件が発覚した時に、ごく一時的な悲しみを覚えるのだろう。

 身勝手な報道や、それに言及する安易なコメンテーターに反感を持っても、私はそれにすら劣るのだ。私のちっぽけな感情はいま誰にも届かないのだから。自分自身ですら継続することができないのだから。

 私には、なにも語ることばがない。語る資格もない。その無力さが、そしてそれでもなにか感じずにはいれない不遜さが、とても憎たらしい。

 けれど、私がこのたぐいの感情を持ってしまうことは、どうしようもない事実だ。いつまでも、過ぎ去った惨事にこころを揺すぶられてしまう自分が続くのだと思う。

 私ができることはなんなんだろう。実際的なことはなにひとつできないのはわかっている。

 私にできるのは、「おもう」ことだけだ。痛みつけられた子どもの辛苦を、痛めつけずにはいられない親の歪みを、歪みのもとにつながる感情の深淵を。

 そんなことは、誰の救いにもならない。「おもいつづける」ことしかできないなんて、私はなんと無力で愚かしいのか。

 だけど、私は自分の無力さや愚かさを受け入れなければならない。上っ面の事象を知った顔で語ることだけはどうしても避けねばなるまい。

 おもうことしかできないのならば、とことんおもおう。

 自らのふがいなさを、卑小さを、とことん感じよう。

 ともなうもどかしさや苦しみを身に刻みながら。

***

 追記。

 確かに、自分の中にも憎しみの芽はあるなあ。それは常に感じている。

 電車の中で赤ん坊が泣き喚いたら、反射的にうるさいなと思う。口を押さえにいきたいとすら感じてしまう。その子に罪なんひとつもないのにね。

 虐待する親なんか「お前が死ね」と思うのに、私にだって根っこには彼らと同じ憎しみの温床が確かにある。それを表出させるかどうかの原因は、それこそ様々あるのだろう。

 私は今のところ子どもを持つつもりはない。我が子から得られる幸福は代えがたいものであるということも、友人の話なんかから感じるけれど、それ以上に、こわいのだ。 

 子どもがいるということによる責任、その責任をわずらわしさに感じてしまうこと、そしてわずらわしさが卑劣な暴力に変わる可能性があること。

 こわいこわいと逃げまわるしかない私は、やっぱり無力な臆病者です。

 

とりあえずスルーの方向で。

今日のニュース。

mixiを開いたら、母からマイミク申請がきていた。

いや、もう、ほんと勘弁して。

桜嫌い

 あーつかれたつかれたつかれた!
 なんだって私はこんなに働かにゃならないんだろう。頭と体を酷使して、時間も費やして、得るものといったらちっぽけな額のお金のみ。一体なにをやってるんだろうと、一日の終わりはひどく虚しい気持ちになる。
 ああもう嫌だ。なんで皆あんなに物わかりが悪いんだろう。なんでも私に聞くな! なんでも私に押しつけるな! ちっとは自分の頭を使え! 思いつきでものを云うな! 誰がそれを実現すると思ってんだ! ああもう全部捨ててやる!

……なんてぶちまけられたらどんなにせいせいするだろう……。

 どうせ私はヘタレだ。結局なんでもかんでも引き受けてえへらえへら笑うしかないんだ。
 だから今日も、溢れんばかりの疲労を抱えて帰路につく。

***

 私の会社のすぐそばには桜の名所があり、この時期はどこか浮ついた空気が流れている。
 夜気のなかで見る桜の花は美しい。それは認める。ついつい携帯を取り出して、カメラを構えてみたりもする。
 けれどこの花が視界に入る季節には碌な思い出がないから、どうにも素直に桜を愛でる気になれない自分がいる。

 一番最悪な思い出は高校最後の春だ。当時交際していた男子とふたりで花見に出かけた。まだ肌寒い公園で並んで座って、私が作ってきたおにぎりを食べた。彼とは別々の進路が決まっていた。けれど、そう距離が離れていたわけではなく、当たり前のように私は未来の話をした。ふたりでいることが前提の未来である。
 来月のあなたの誕生日はどこそこへ行こうね。夏は旅行でもしようね。
 そんな私に彼は言い放った。

「俺は君みたいに頭のいい大学に行く子とは付き合っていけない。別れよう」

 なんでこのタイミングで、と思った。周りには幸せそうな家族連れやカップルがいて、もちろん桜も満開で、こんなに満ち足りた光景の中で、なんでこの人はこんなことを言い出すのだろう。当時の私にはまったくもって理解できなかった。

(せっかくお弁当作ったのに。昨日から準備して、早起きもして一生懸命作ったのに……。)

 なぜかそんなことばかり頭に浮かんだのを覚えている。今思うと的外れな責め方だけれど、完璧なはずの春の一日が、そして完璧だと思っていた彼との将来が、思いも寄らず壊れたことが十八歳の私にはよっぽどショックだったのだろう。まだ将来にいくばくかの信頼を置いていた頃の私。
 他にも嫌な思い出はたくさんある。大学で入った軽音サークルでの花見では、さんざん呑まされたあげく道ばたに放置されたし、社会人一年目に先輩が開いてくれた花見では酔っぱらっていらぬ失態をさらした。昨年バンドメンバーとおこなった花見では携帯電話をなくした。ほら覚えてるだけでこんなにある。
 もちろんいい思い出もあるにはある。好きなひとや気の置けない友人と共に桜の下で楽しいときを過ごした記憶。
 けれど、もうそれは過ぎ去った過去であり、取り戻せない時間であるということ自体が、私に憂鬱な感傷を呼び起こす。
 
 横目で、宴会する人々を眺めながら駅に向かう。
 彼らの赤ら顔や大声を、冷えた心でやり過ごしながら。 

 明日の朝通るこの道は、彼らが残した酒や食い物の残骸で薄ら汚いのだろう。吐瀉物なんかもこびりついているのだろう。

 ああ、やっぱり、桜なんて嫌いだ。

***

 なんか週明け早々暗いな。だめだだめだ。

 そうそう、先週末会った友人に薦められた本がすこぶる面白い。
 内田樹著「ためらいの倫理学」
 哲学者である著者が、軽快な文体で戦争・性・物語について語っている。いや、「語っている」というと語弊があるかもしれない。彼自身は他者に押し付けるような強固な思想を持っているわけではない。逆に、彼がそれらについて「なぜ語らないのか」という理由が本書には書かれている。
 まだ読み始めて間もないのですべてを評することはできないが、彼のスタンスは私によく馴染むようだ。
 彼は、他者が「正しいとみなす意見を表明する姿勢」を肯定する。けれど同時に、他者が「正しいとみなす意見を他者に正しいと強要する姿勢」を肯定しない。他人同士が噛み合わぬことを当然とし、その噛み合わぬさまをそのまま受け入れている。ような気がする。
 世の中の大半は「正解」を究明することがよしとされているけれど、「正解なんてないのが正解」だと常々私は感じている。そういう意味で、彼の、曖昧さを許容した上で、素直に自分がよいと思うもの、嫌だと思うものを表明する態度に共感と好感を持ったのだった。

……なーんちゃって、それらしいことを言ってみたり。

***
 
 明日目が覚めたら世界が一変していないかなあ。いないよなあ……。
 昔よく読んだファンタジーの世界に逃げ込んでしまいたい。
 でもそんなことは不可能だと知っているつまらない大人の私は、自分の物語を作ることに努めます。すなわち、小説を書いてみたりします。

 おやすみ。

どんな嘘をついてやろうかとずっと考えていたけれど結局思いつかなかった一日。

 嫌な人間になりたいと常々思っている。
 はっきり言って私はいい人すぎる。めったなことでは怒らないし、誰に対しても人当たりがいい。友人が困っていたらなんとか助けになりたいと思うし、好きな人には最大限の喜びを感じてもらいたい。上司の無理難題にも素直に応じるし、おっちゃんたちの下ネタに笑って付き合ってやったりもする。
 そんな自分は、正直つまらない人間だと思う。人の記憶から真っ先に抜け落ちるのは私のような「いい人」なんだろう。
 だけれど、それと同時に私は他人から疎まれたり嫌われたりすることをとても怖れている。正面切って批判されるのはもちろんのこと、陰で悪口を言われているのではないかと想像するだけで、気持ちが鬱々としてくる。
 私は、「愛すべき嫌な人間」になりたいのだ。あいつは迷惑だなあ、仕方のないやつだなあと言われながらも、周りが放って置かないような。時たまそんな性質の人を見かけることがあり、都度しびれるほど羨ましい気持ちになる。私自身、そういった人間にいつのまにか惹かれてもいる。
 まあこんなことを言ってる時点で、私は中途半端な凡人でしかないんだろう。あーあ。いやだいやだ。

***
 会社の同期から「先週入籍しました」というメールが届いた。相手は私が以前同じチームで仕事をしていた先輩とのこと。この同期とは、ちょっとしたすれ違いから疎遠になっていたので、二人が付き合っていたことはまったく知らなかった。多少驚いたが、ああめでたいなと祝福メールを返した。
 その数分後、別の同期からメールを受け取る。

「私も再来月に式を挙げることになりました」

 ああ、そうなんだ。
 返信をする間もなく、これまた別の同期からもメール受信。慌しいなおい。

「子どもが生まれることになりました。6月が予定日です」

 なんだこのめでたいラッシュは……。
 一瞬、あ、今日はエイプリルフールじゃないか! と、ドッキリを疑ったが、嘘にしてはずいぶんと面白みに欠ける。そもそもドッキリを仕掛けられるほど、私は同期と親しくない。たまたま時期が重なっただけだろう。
 それにしてもよく重なったものだ。なにこれ、今結婚とか出産とか流行ってんの? そういや大学時代の友人ももうすぐ何人か結婚するとか言ってたな。あ、ブームとかそういうやつ? ツイッター始めましたーみたいなノリで結婚しちゃいましたーみたいな? いやー私、流行とかほんっと疎いからぜんぜん認識なかったわー!

…………orz
 
 幸せなやつはみんないなくなればいいのに。

***
 帰りに後輩のムラサキとカラオケに行った。「会社に行く度、貧血がするんですよー」と泣きつかれたので、気晴らしにと誘い出した。
 部屋に入るなり、木村カエラの『butterfly』を歌いながら結婚式ごっこをする、結婚の予定なんてまるでない二人。なんて自虐的なんだ。
 幸せな曲はそれで終了し、あとは鬼束ちひろ、Cocco、中島みゆきといつもの鬱メドレーに突入した。ドリンクを運んできた店員がギョッとするほどの情念を込めて歌い倒す。
 みっちり二時間歌って店を出る時には、嘘のようにすがすがしい顔をしているのだから、私たち二人も単純なものだ。
 けれど、思うようにいかない毎日をなんとか生きる力は、こんな風にしてつくられるのだと思う。
 明日も生きるよ。

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