いつのまにか桜が咲いてた

 先週末、結婚式が終わった。
 入籍してから約10ヶ月。準備期間は山ほどあったはずなのに、結局直前でばたばたしてしまい、慌しく当日を迎えた。

 その日は、始終頭のなかにうっすらもやがかかっているようで、現実感がなかった。大切な人たちが入れ替わり立ち代り祝福の言葉をくれ、夫がずっと「幸せだ、楽しい」と笑っていた。
 私はそれらを聞きながら、たくさん笑い、たくさん泣いている自分自身を、どこか違うところから眺めているような気分だった。渦の中心に立ちながら、そこから最も離れた場所にいるような心もとなさを抱えながら。

 けれど、遠い場所から見るその風景は、とても美しく、穏やかだった。

Ring


 当日の天気予報はくもりだった。けれど、教会からガーデンに出た瞬間だけ、狙いすましたかのように陽がさした。

 花かごから次々に投げられる色とりどりの花びら。手を叩きながら笑うたくさんの人々の顔。
 光に照らされて白く輝くそれらは、遠い過去から取り出してきた幸福な記憶のようで、なぜかとても、懐かしかった。

 いつか私が死ぬとき頭に浮かぶのは、もしかしたらこの場面なのかもしれない、と思った。

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 なーんてぼんやりしているうちに、巷は桜が満開だったよ。

 今週末はお弁当を持って近所の公園へお花見に行こう。散りかけのまばらな桜を肴に、お酒を飲もう。

 

 あー、憂鬱な月曜日。

 私は、たぶん人に侮られやすいたちなんだと思う。きっとそれは、私の顔や態度や言葉から、卑屈さがにじみ出ているからなんだろう。なにを言われても、えへらえへら。誰に対しても、下手な媚を売っている。客観的に自分を見たら、きっとそのみにくさに、吐き気がするだろう。
 あーあ。誰とも関わらずに生きていけたらいいのに。それで平気な自分になれたらいいのに。

 体中に穴が空いている。皮膚を覆いつくすように、小さな穴が無数に空いている。一生懸命空気を吸い込んでも、それは温められる前に、穴を通して吹き出てしまう。いくら水を飲み下しても、それは吸収されずに、穴の淵を流れ出てしまう。寒々しい感触だけを残して。

 私の中は、いつもからっぽだ。

 

 

 

半年は長かったのか短かったのか

 ご無沙汰してます! 毎日、寒いですね。自転車で通勤していると、耳と頭と指が痛くなって困ります。全身が冷たい風にさらされて、ずきずきする。走っている間はあまり気にならないのに、会社に着いて暖房の効いたフロアに入ったとたん、思い出したように痛み出す体。あれはなんでなんでしょ。

 さて、近況などをぽつぽつと。


 先日、夫がクリスマスツリーを買ってきた。私の身長の半分ほどの、小さなツリー。家から自転車で15分ほど走った先にあるホームセンターで、ただでさえ安価なのに、さらに割引されて売られていたらしい。まだクリスマスまでは一週間以上あるのに。
 夕食を食べ終えて、ふたりでいそいそと飾り付けをした。サイズが小さいから、作業はほんの数分で終わった。出来上がったツリーを眺めて、夫と顔を見合わせた。付属の装飾品はいかにも安っぽく、てっぺんに星を飾ると、ほんの少しだが右に傾いて見える。
「なんか、しょぼくない?」
「確かに」
「でも、そのしょぼさが、なんか可愛い!」
「確かに!」
 値段相応のしょぼくれたツリーは、それでもリビングの一角をほんのり明るくした。それから毎日、視界に入るたび、夫とふたりで可愛いねと言い合っている。


 数日前、家に友人たちを呼んで、少しはやめのクリスマスパーティーをした。まあ、クリスマスを口実にした、ただ呑んだくれる会である。とはいうものの、件のツリーも客間に移動させ、いつもより手をかけて鶏を煮込んだりして迎えた。
 客人は、以前通っていた小説教室で出会った夫婦共通の友人である。カップル1組と独身男子1人。独身男子はいつも値の張る焼酎を手土産にかついで来てくれる。今回は甕雫。芋の割りにするすると呑みやすい危険なお酒。カップルは、スーパーでサーモンのたたきを仕入れてきてくれた。でかでかと半額シールが貼られているのを見て、思わず頬が緩む。若い彼らはまだ半分大学に足をつっこんでいて、派遣のバイトで食いつないでいるのだ。彼女の方が、「今日はユザワヤで6時間チェーンの長さを計ってきました」と笑う。前呑んだときは、朝から晩まで謎の肉を切る仕事をしたと言っていた。
 彼らと呑むのは、とても楽しい。よく食べるし、よく呑む。ビール6缶、ワイン1本、甕雫があっという間に空になる。酒を傾けながら、とめどなくしゃべって笑い転げる。大部分はどうでもよいこと。ちょこっとだけ小説の話も。
 独身男子が、来年の初夏に本を出版することになったそうだ。かねてから書いていた歴史小説が認められたのだ。初め新人賞に出して落選したのだが、どうしてもあきらめきれず、手直しして著作権エージェントに持込をしたとのこと。いまは編集氏から課された書き直しに四苦八苦しているそう。
 友人が小説家としてデビューするのは素直に嬉しい。彼の情熱と、それを形にするための緻密かつ粘り強い努力には、本当に頭が下がる。
 でも、なんとなく心がもやもやするのも事実。悔しい、とか、羨ましい、だったらまだいいのだ。でも、違う。悔しいとあんまり感じない自分に、なんだかなあと思うわけだ。6月以来、ほとんど小説らしきものを書いていない。書こうと思って、仕事の休み時間などにワードを立ち上げてみたりするけど、1枚分くらい書いては消し、書いては消しを繰り返してぜんぜん進まない。指が重くて、思考がいろんなものに邪魔されて、結局白紙のままワードを閉じる。誰か見えない人が、見えない糸で私の指を引っ張っているのか。耳元でいらぬことを囁いているのか。
 まあ、“見えない誰か”は、怠惰で言い訳がましい自分自身だとはわかっているのだけど。
 とりあえず「こんちくしょう、すぐに追い抜いてやるわ」と思えるまでは、じっとしていよう。その間に、いろいろな出来事を咀嚼して、消化して、蓄えて、心に分厚い膜を作らなくっちゃ。自分の感情に呑まれないように。酔わないように。
 結局、その日はべろべろに酔っ払ったまま、皆でカラオケにいった。夜中の寒い道を酒臭い息を吐きながら帰って、そのまま風呂にも入らず寝た。楽しかった。ちゃんとお腹の底から笑える日が、こうして当たり前にあります。それをまだ、不思議に思ったりもする。


 もうすぐ1年が終わる。1年が終わったからといって、日々は変わらなく続いていくのだけど、「区切る」ことはなかなかよい習慣だと思う。
 持ち続けることは大事だけど、持ちきれないものを手放すことも大事。新たに現れる持つべきもののために、手は空けておかねば。そのきっかけを作るための「区切り」。

 それでは、ちょっと早いけど、皆さんよいお年を!


 ちょっと宣伝。
 私も少しお手伝いをしたバーが大阪南船場にあります。細長い地下の店内は、壁一面に本が並んでいます。
 月に1度、「クリエーターズネスト」というイベントをやっており、作家さんや本作りに関わる方がゲストに来られます。
 前回12月は「怪談社」の怪談師、 紗那さんと紙舞さんが来られ、次回1月は作家のいしいしんじさんが登場とのこと。
 お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
 
 ◆文学バー リズール
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~liseur/index.html 

近況

ご無沙汰してます!
毎日暑いですね。ほんと暑い。
キッチンで料理をしていると汗がだらだら流れてたいへんです。
わたし自身が煮込まれてるみたいです。きっといい出汁出ています。
出涸らしの体ですが、今日も生きておりますよ。

あれからね、いろいろあって、今まで知らなかったことをたくさん知ってしまいました。その中には、知らなけりゃよかったってこともありました。
相変わらず毎日心のどこかが悲しいし、つらいし、腹立たしいし、うわーって叫びたい。でも、それ以外の部分では、楽しんだり喜んだりバカ笑いしたりしているのも事実で。
そんなすべてをひっくるめた日常を過ごしています。
幸か不幸か、わたしの体ごと日々は進んでいきます。

先週、29歳になりました。
姓が変わって、初めての誕生日。
夫が、カラスミでパスタを作ってくれて、近所のケーキ屋で可愛いケーキを買ってきてくれて、お祝いをしてくれました。ささやかだけど、幸せな時間でした。

28歳の後半は、本当に慌しい時間だった。
人生で一番嬉しいことができたと思ったら、そのすぐあとに、人生で一番つらいことがやってきた。
6月。
夏の気配が顔を見せる青い季節になるたび、わたしはその両方を思い出すんだろうなあ。
何十年経っても、きっと死ぬ間際にも。
どちらもわたしにとっては、忘れられない出来事です。忘れたくない出来事です。

近況。いまは、来年の4月に行う結婚式の準備をしています。
会場を決め、ドレスを選び、親しい友には日程の連絡を始めているところ。
彼女にも、出席してもらおうと思ってます。

……なんか久々に文章を書くと、うまく話がまとまらなくて、あっちゃこっちゃ筆が飛びますなあ。見苦しくてすいません。
でも、体のなかにあるものを言葉に変換するのは、やっぱりわたしには必要な気がしてます。

とりあえず、ここを見てくださってる希少なあなたに、わたしは生きていますという報告でした。
関西は、今日から明日にかけて、ひさしぶりの雨が降るそうです。それが止むと、気温がすこし下がるらしい。だんだん秋に近づいてるんですね。
涼しい季節がきたら、きっとすこしは、生きやすくなるでしょう。
では、皆さんご自愛を。

揺らぎ続ける

 相変わらず、日々はどんどんと進んでいる。
 置いてきぼりにならないように、せっせと歯を磨いたり、自転車を漕いだり、DVDを見たりして過ごしている。
 そうしなければ、というより、そうするほかはないから。
 とりあえず経済を回そうと、毎日仕事で物を売って、その後呑みに行っています。

 最近観たDVDは、「楢山節考」と「リトルミスサンシャイン」と「ミルク」の三作。
 一番印象に残ったのは、深沢七郎作の小説が原作の「楢山節考」だった。姨捨山伝説をベースに、信州の寒村に住む人々を描いた作品である。

 よくもまあ、というのが一番大きな感想。
 よくもまあ、こんなに人間の価値観や生活様式や風習や、なにもかもが、時代によって変化するものだと、驚きを通り越して、ただ圧倒された。
 自分がいままで当然として受け入れてきたもの、というか当然すぎてそれを意識すらしてこなかったものが、ぐらぐらと崩れてゆくのがわかった。
 出てきたシーンの例を挙げてみると、
 年寄りがいつまでも元気なのは恥ずかしいと、老婆が自分の前歯を石に叩きつける。数日前に夫を亡くした女が別の男の後妻となり、当たり前のようにそれを受け入れる。(新しい夫との初夜に「前のより良いわあ」とのたまうw)作物を盗んだ隣人を、村中の男が集まって、家族もろとも生き埋めにする。流産した子どもを近くの畑に捨て置く。
 などなど。どれもこれも、現代の感覚では到底考えられないことだ。
 特に「生」と「死」の捉え方が、今とは全く異なっていることに吃驚する。ひとつひとつのディテールに毒されて、メインとも言えるラストの「姥捨て」が、いつのまにか自然なものにすら思えたほどだ。普段、卑小ながら自分自身が有しているつもりだった持論や価値観が、実は知らず知らずのうちに「時代」というものに洗脳された結果なのかもしれないと、身震いがした。
 この世の中には「正しいこと」などなにひとつとしてない、あるのはその時代や場所のなかで、たまたま作られる「空気」だけだ。その空気に逆らわないよう、あるいはあえて逆らうことで、人間は右往左往しているのだ。
 そんな当然のことを実感した気がした。
 興味深い映画だった。原作の小説も読んでみよう。

 なーんてことを思っていたら、現代にもそのような考えを持ち続けている人物もいるようだ。奇しくも、映画を見た翌日に以下のサイトを見つけて苦笑した。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/20011106josei.htm

 基本的に、私は他人の考え方に干渉しない人間だけど、もろもろの発言を見るにつけ、彼のことは政治家としてはもちろん、なにより小説家として認めるわけにはいかないと思っている。物を創る者にとって、想像力の欠如や視野の狭さは致命的ではなかろうか。

 前回の日記に書いた、被災地の方が無事だったとのこと。本当に、本当によかった。私は、まったくまったくなにもできなかったけれど、逐次情報を取捨選択して公開してくださっていた方のブログや掲示板のおかげで、状況を知ることができてよかった。ありがとうございます。
 もちろんこれからの方がはるかに大変だとは思う。けれど、生きていて、本当によかった。

 まったく話を変えますと、近々結婚することになりました。一年前はまさか「彼」とこんな風になるとは思いもよらなかった。けれど、いまは、こうなることこそ自然だと確信を持って言える。

 人間の考えや感情や人生は、一年かそこらで、いや一分の間にだって大きく変動し得る。私は、そんなあやふやな揺らぎを、見つめながら、記しながら、いつまでも生きていきたい。

ここ数日のこと

 ここ数日、常に淡い疲労感が身を覆っている。
 言うまでもなく、地震の影響だ。

 テレビから、ネットから、次々に悲惨な情景が飛び込んでくる。悲惨すぎて、とても事実とは信じられないほどの。
 物事は、その規模が大きければ大きいほど、現実味を失うらしい。私の小さな脳の許容量をはるかに超えた数の家屋がつぶれ、土地が水に呑まれ、そして人が死んでいる。
 被害が報道され始めた当初は、流れ出る情報ひとつひとつに、呼吸を忘れるほど驚いた。そして胸の奥が苦しくなった。
 けれど数日たったいま、朝から晩まで繰り返し流される映像の前で、私はただ呆然とするばかりだ。

 被害の最も大きいとされている地域に、知っている人が居る。知っているとは言っても、ネット上、しかも私が一方的に触れに行っているだけの人だけど。
 彼のことがとてもとても心配だ。顔も知らないけれど、私は彼の言葉や、そこに見え隠れする生き方に、よく励まされた。還暦を超えてなお漲る生命力に、圧倒されながら、「私も頑張ろう」と思えた。どうしても生きていてほしいと、毎日祈るように思っている。テレビに被災地が映るたびに、よく知りもしない彼の姿を、いつのまにか探してしまう。
 こうして、「彼」というひとりの人間の安否を案じるとき、私にとって今回の災害はリアルに感じられる。けれど、少しでもそこから焦点をずらすと、とたんにすべてが違う星の出来事のように、ぼんやりと輪郭を失うのだ。

 大阪に住む私の日常はなにも変わらない。
 先週と同じように、次から次へと仕事がやってくる。家に帰れば、ごはんを作らなくてはいけないし、三日もすれば洗濯物も溜まる。
 当たり前に、「日常」が目の前にある。

 きっと、それが私の身体を疲れさせているのだろう。
 数百キロ先にある「現実」と、すぐ目の前にある「現実」。あまりに違うものになってしまったふたつの世界にはさまれて、きっと身動きが取れなくなっているのだ。心をどこに置いてよいのか、落としどころを見つけられないまま、身をこわばらせているのだ。

「被災地のために、私たちにいまできることをしよう!」
 そう高らかと声をあげ、募金をしたり、メールを回したり、リツイートをしたり、はたまた歌をうたったり、とにかく動き出している人がいる。
 
「いまの時点で私たちにできることは多くないのだから、とりあえず自分の生活を着実に生きよう」
 そう納得して、日々の暮らしを営み続ける人がいる。

 どちらも真っ当なスタンスだと思う。

 私は、どちらにもなりきれていない。

 募金しなくちゃ。献血しなくちゃ。節電しなくちゃ。私に他にできることはないかな。でもできることなんてたかがしれてるし……。
 こんなにぬくぬくした部屋で暮らしてていいのかな。電気を無駄遣いしてていいのかな。被災者の人は過酷な状況にいるのに。
 正直、毎日つらいニュースばかりで気が滅入るな。そろそろ普通の番組が見たい。けど、そんなことをいうのは「不謹慎」かな。「非常識」かな。
 いや、いいよ、それとこれとは別だよ。私は私の現実をちゃんと生きなきゃ。明日も仕事に行かなきゃ。そのために早く寝なきゃ。

 でも。でも。でも……。

 頭の中で思考をぐるぐるぐるぐる回し、自分に言い訳や誤魔化しをしながら過ごしている。
 支援者にも、当事者にも、傍観者にも、偽善者にすらもなれないまま、立ち尽くしている。 

 世の中は、悲しい出来事で溢れている。今回の震災で被害に遭われた人だけじゃない。その日の食べ物がなく飢える人も、突然の事故で命を失う人も、理不尽に殺されてゆく人も、山ほどいる。もしかしたら、いままさに私の隣の部屋で虐待されている子供もいるかもしれない。

 その中で、私はどんなことを思って生きていけばいいのだろう。どこまでの範囲に心を寄せればいいんだろう。そもそもこんなことを考えることすら、人としておかしいんじゃないだろうか。

 そんなことを考えると、ちょっと気が遠くなる。

 でも、もしかしたら、そんな風に自分の心の置き場所を見失っている人は、たくさんいるんじゃないだろうか。みんながみんな、なんとなく「こう感じねばならない」という枠を知らぬ間に作りあい、けん制しあい、縛りあい、そのなかで自らがんじがらめになっているんじゃないだろうか。どうだろう。わからないけれど。

 あ、いま、揺れた。

 静岡を中心に、また広範囲で地震が起こったようだ。怖い。心細い。ほんとうに、もう嫌だ!

 なんだかんだ言っても、結局はごく狭い範囲のことしか考えられないんだよな。

 私の知っている人が、私の好きな人が、私が、どうかなにごともなく明日を迎えられますように。

 エゴでしかないけど、エゴでしかないからこそ、そう切実に願う。

ゆるやかに始まる

 あけましておめでとうございます。

 もう9日にもなってなにを言うかという感じですが、なにごとにもスロースターターなのでようやく新年が始まった気分です。

 長らく放置していたこのブログもぽつぽつと更新していこうかしらと思っています。


 新年早々、妹の子どもが生まれました。瞳の大きな男の子です。
 すくすくと育つ赤ん坊を見守りながら、わたしも今年はたくさんの文章を生んでいければと考えています。

 元旦に引いたおみくじには「願望、遅れるが叶う」とありました。
 いくら遅くなろうが、叶うならば、よしとします。なにせスロースターターなのですから。

 こんな過疎ブログをたまに見に来てくださる皆様にも、幸多い一年でありますように。

 
 

わたしくらい思い通りでもいいのに

 今日も大阪は雨。

 ざあっと降ってはすこし止み、過ぎ去ったと思えばまた降り出す、という落ち着きのない空だった。

 例によって自転車で出かけたのだが、風が強くてまいった。会社に着くまでに三回傘が裏返り、そのたび降りて直すものだから、いつもの倍を走った気分だった。裏返った傘って、とってもまぬけですよね。それを差しながらふらふら蛇行するわたしも情けない姿だったろうなあ。

 今週末には、なんと台風がくるらしい。そのことを別の地方のひとに告げると「大阪は、季節が一か月遅れてやってくるの?」と訊かれた。そうかもね、と適当に流したけれど、実際時間軸が捻じ曲がっているのかもしれない。

 んなわけないじゃん。

 週末は、IKEAに買い物に行って、そのあと後輩のライブに出向くつもりにしているが、もしかしたら両方叶わなくなるかも。どちらも楽しみにしていたのに、ざんねんだ。気合でなんとかできないかしら。「ふんっ」と手を振り回して、台風の進行方向を力づくで曲げる妄想をしている。

***

 話があちこちに飛ぶけれど、最近また寝つきが悪くなってきた。

 眠気を感じて布団に潜りこんでから、実際に意識が消えるまでがとても長い。

 うつらうつらしては、それを遮るように、頭のなかにぽつんとなにかが浮かぶ。それは、ひとつの単語だったり、ひとかけらの映像だったり、どちらとも言えないようなかすかな気配のときもある。

 どこからやってきたのか、なんのためにやってきたのかさっぱりわからない。

 そのなにがしかは、眠りの世界からぐいっとわたしを引っ張り上げて、なんとか覚醒させようとする。寝たら死ぬぞと言わんばかりだ。余計なお節介より、安らかに死なせてくれと言いたくなる。

 昨夜も結局三時間ほどしか寝られず、今朝はどんよりとした頭で目覚めた。遭難して生き延びたひとは、そう爽快でもないのかもしれないと思う。

 寝たいのに眠れない、とか、考えたくないのに脳に思念が浮かぶ、とか、どうしてなんでしょうかね。自分の身体なのに、自分でコントロールできないのは、一体なぜなんでしょう。わたしの肉体はわたしの持ち物じゃないのかな。世の中思い通りにならないことばかりなのだから、わたしくらいは言うこと聞いてくれたっていいのにね。

 なんていう愚痴を愚痴愚痴いってたら、今夜も眠りを逃しそうだ。

 

  

ここ一か月の赤いものと黒いもの

 夏休みどころか、もう秋すら終わろうとしている。

 そろそろ更新したいと思いつつ、なんとなく気が乗らなくて、またもや放置してしまっていた。一日いちにちは長く感じるのに、振り返ると、ひと月なんてすぐに過ぎている。時間の流れの法則を、わたしはまだうまく掴めていない。

 季節は確実に冬に向かって進んでいて、だんだん肌が乾燥してゆくのがわかる今日この頃だけど、日々わたしがやることに、そう変わりはない。相変わらず、毎日同じ時間に仕事に行き、夜は酒を呑んで、すこし小説を書いたり読んだりして過ごしている。(このフレーズはこのブログに何度登場してるだろう……)

***

  最近自転車通勤を始めた。といっても、マンションから会社まで十五分足らず、たいした距離じゃない。けれど、会社に着くころには、よい具合に体があたたかくなり、適度な運動になっている気がする。この季節は、空気の柔らかさもちょうどいい。夏のようにぐにゃりとしていないし、冬のようにするどくない。ブレーキをかけずに坂をくだると、さわさわと顔にあたる風が心地よい。ただそれだけで、すこし得した気持ちになる。今日みたいに雨の日は、眼鏡が曇ってうっとうしいけれど。
 自転車は赤い色にした。ふだんなら、鮮やかすぎてあまり選ばない色。年を取ると、無意識に明るいものに近づきたくなるんだろうか。それとも、今のわたしは変化が欲しいのだろうか。なにわともあれ、とても気に入っている。

***

 先週末、喪服を買った。久しぶりにもとめる服が黒いワンピースだということに、気が塞いだ。例年であれば嬉々として秋服を揃える時期なのに。
 ここ数年で、いくどか通夜や葬式に出向く機会があった。その都度、わたしは、その場に居る自分を持て余している。
 100%悲しみに入り込むこともできず、100%傍観者であることもできず、涙にくれる人々のなかで途方に暮れるのだ。のっぺりとしたスクリーンに映された映像を、ひとり外側から眺めている気分を味わいながら。それは故人がとても親しい知人や身内であっても、変わらない。
 わたしは、本来人間が持つべきであるなにかしらの感覚が鈍いんじゃないだろうかと、ときおり不安になる。けして悲しくないわけじゃない。無念さがないわけじゃない。だから、わたしはいつも自分の心の奥にある悲しみに意識を集中させようとする。悲しみを増幅させて、それに身を浸そうとする。すこしでも気を抜くと、即座に入り込んでこようとする冷たい傍観者の目から逃れるために。
 それはうまくゆくときもあるが、たいていはしくじる。いずれにせよ、式が終わる頃には、わたしはどっと疲れている。強い自己嫌悪とやりきれなさを持って、帰路につくことになる。
 このたびも、そうだった。買ったばかりの暗い色の服と靴で身を隠すように、泣き崩れる輪から抜け出した。
 涙にならなかった感情は、いまだにぐじゅぐじゅと心にへばりついている。

***

 ひさしぶりに書く日記だからと爽やかを意識して書き始めたはずが、どうにも暗いものになってしまった。見てくれている人、ごめんなさい。
 けれどまあ、心の動きを書き残すことが目的の日記なので大目に見ていただけると幸い。

 お口直しに、フィンランドで見つけた可愛い鳥さんを載っけとこう。

R0013426_edited1  鳥が好きです。わたしの部屋は、カーテンも布団カバーも間接照明もバスマットも、鳥モチーフのものだらけ。

 ではおやすみなさい。

もう夏休みでも子どもでもない秋の夕べ

 昨日は神奈川県の厚木で仕事があった。B1グランプリというイベントに社が関わっているので、応援に駆り出されたのだ。
 炎天下の中、ビラ配りと撮影をしていたのだが、あまりの人の多さと、アスファルトからの照り返しの強さに閉口した。
 わざわざ好き好んでやってくるお客さんたちに脱帽する。仕事じゃなかったら、私はぜっっったい行かない。
 汗だくになりながら声を上げて走り回っていたが、十万部も刷ったチラシが捌けるはずもない。同行者と互いの健闘をたたえながら、二時過ぎには会場をあとにした。哀しいかな、結局B級グルメはひとくちも食べられなかった。ひとくちも!
 悔しいから会場近くの焼き肉店で「厚木シロコロホルモン」と「横手やきそば」を注文した。やきそばは、供された瞬間から冷たかった。かなしすぎる……。

 今日は昨日の疲れを癒やすべく、朝からお酒を呑んだり、小説を書いたりしてゆっくり過ごしている。小説はひとに読んでもらったりしつつ、すこしだけ進んだ。

 昼過ぎに一時間ほど昼寝をした。起きてみると、蚊に刺された跡が計五つ。そのうち一つは額の端でぷっくり膨れている。タンコブみたいだ。
 私はどうやらとても蚊に好かれやすいたちらしい。同じ部屋で寝ていたはずのひとはまったく無事だったのに……。アラサーにもなっておでこにタンコブだなんて。恥ずかしい……。
 いまは蚊取り線香を焚いている。とても懐かしい匂いがする。田舎の祖母の家の匂いだ。
 蚊取り線香の煙と扇風機の風、夕方のニュース、窓の外から聴こえる虫の声。
 幼いころの夏休みにタイムスリップしたような気持ち。
 とても平和で、すこし心もとない。
 もう夏は終わってしまったし、もう子どもでもないんだなあ。なんて、感傷に浸っておりますよ。
 大人な私はビールでも買いにいこうかしらね。
 おでこにタンコブつけて。

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